201213 青い雨の悲劇について

 魔法舎の広いバルコニーには空中庭園さながらの花壇が広がっている。
 形の綺麗な煉瓦と手入れの行き届いた草木が彩る広場は、毎日たいてい十四時くらいになると西の魔法使いたちが集まってくる。彼らはお茶会のためにテーブルとイスと、ティーセットとおやつと、どこからともなく優雅な楽器の音色を設えて、なんだかお洒落なお茶会の会場へと変えてしまうのだ。
 しかし、雨の日にはそのティーパーティーは談話室で開かれるので、バルコニーはしとしと雨の降り続く、虹色の水たまりの跳ねる、花や木々が雫に打たれて首を垂れる、趣のある静かな庭へと姿を一転させる。
 わたしが生まれ育った元の世界では――雨なんてただ憂鬱にさせるうっとおしいものでしかなかった。それなのに、この世界では、何の変哲もない景色の小さな移り変わりさえ美しく、儚く特別で、取り分けすばらしいものに見える。窓の外から雨だれを眺めて、それを慈しむ気持ちが生まれるだなんて、ここに来るまでわたしは思ってもみなかった。
 賢者になって一年が過ぎた、とある冬の初め。雨が降ったので、わたしは机の上に飾った紫色のカエルのオブジェをひと撫でしてから私室を出た。なんとなく思い付きで、雨のバルコニーの姿を見ようと思ったのだ。今日の雨はどんな温度で、どんな風に降り落ちて、どうやって水たまりになっていくのか。雨の向こうの雫を見つめていたら、どういうわけか無性に確かめたくてたまらなくなった。
 思えばそこからすでに、今日起こる不思議なことの紐は解かれていたのだろう。

 バルコニーへ向かうには、談話室の中を通る方法と、廊下の端にある扉から出る方法の二つがある。
 談話室の前を通り過ぎると、中から何人かの話し声が聞こえてきた。きっと今日のお茶会で何かおもしろくておかしいことでも起こっているのだろう。ややこしいことに巻き込まれるような気がしたので、わたしは談話室ではなく廊下の奥の扉の方を目がけて歩いた。
 誰ともすれ違わない廊下、というのは珍しい。この魔法舎には二十一名の魔法使いがいて、それぞれの生活時間を過ごしているので、誰かと出会う方が普通だ。
 まあ、雨だし、みんなおとなしくしてるのかな――。その程度の認識でバルコニーへと一歩踏み出した。

「賢者様、待ってください!」

 静かな空気をひりついた声が切り裂く。ルチルの声だ。
 わたしを呼び止めるその声は少し、ほんのあと数秒、早ければ間に合ったかもしれない。彼を振り返ったとき、わたしはすでに雨空の下にいた。
 青い色のついた雨が自分の身体の中に静かに、ゆっくりと、そして深く、染み込んでゆくのを、どこか他人事のように感じていた。
 どうしてだろう。
 青い雨。温度も、影も、水たまりも、何にもない。
 青から、深い紫へ、そして濃紺、果てのない黒へと色を変えて、わたしの内側に雨雲をつくっていく。
 形のないそれがよく見えた。まるで自分の胸を開いて、そこで渦巻く物語でも観ているように。はっきりと分かった。けれど何もかも遅かった。

「いや――――」

 不安。嫌悪。欺瞞。羞恥。静寂。孤独。疑念。猜疑。絶望。
 言葉にするとそんな感情だろうか。酷く、混乱して、訳の分からない感情に頭の中をぐちゃぐちゃにされて、悲しくて寂しくて、辛くて苦しくて――たまらない。誰にも、何にも、わたしを救ってくれない。そう思った。
 自分を保てなくなるほどの絶望感に拉がれるように、わたしはバルコニーの端まで駆け出した。

「賢者様、落ち着いて。そっちへ行ってもいい?」
「……フィガロ。駄目です。今は……一人にしてください」

 手すりに縋り寄ると途端に力が抜けて、わたしはその場に崩れるようにうずくまった。心臓がドキドキしているのは恐怖のせいか、孤独感のせいか、取り留めのない気持ちが押し寄せて、自分でも整理がつかない。
 皆がわたしを遠巻きに眺めている。こちらを見て、憐れむような視線を寄越している。

「大丈夫だよ。これは全部、魔法のせいなんだ」

 フィガロが子どもに諭すような口調で、一歩、一歩にじり寄ってくるのが分かって、わたしは、腰を抜かしたまま後ずさりをした。
 フィガロが、皆のことがいやになったわけじゃない。怖いと思ったことがわずかにあっても、魔法使いのことがきらいとか、憎いだとか、そういう風に思ったことは今までに一度だってなかった。それなのに今は、どうしても傍に来て欲しくない。誰にも、近づいて欲しくない。
 顔を見られたくない。
 わたしは、訳も分からず泣いていた。

「賢者様、聞いて」

 こんな情けないところを皆に見られることになるなんて。

「君が浴びたのは雨じゃなくて魔法薬滴だ」

 フィガロの優しい声すら今は胸をざわめかせて、落ち着かない気分にさせる。怖くて、悲しくて、みじめで、残酷な気持ちになる。

「この青い雨は……君をわけもなく悲しい気持ちにさせる」

 まるで悪い夢か何かのように。
 わたしの涙を見てもフィガロは顔色ひとつ、変えてなどいなかった。



***



「賢者様の周りに傘を差しました」
「ありがとうレノ。さて、どうしようか――」

 フィガロ先生がバルコニーから戻り、談話室にいる私たちを一瞥する。
 降りやまない青い雨にいつまでも濡れている賢者様を想って、レノさんが賢者様の真上にいくつか傘を差してさしあげていた。あの雨に濡れている限り、悲しい感情に心のすべてが支配されてしまう。あれはそういう魔法のかかった悲しい雨なのだ。
 青い雨がつくられた原因は一つではない。それはもう、色々なことが絡み合って巻き起ってしまった。
 フィガロ先生との授業でミチルが作った手のひら大の雨雲を、通りかかったムルさんが巨大化させて、それをわたあめと勘違いして飛びついてきたオーエンさんが違うと知って投げ飛ばし、ぶつかりそうになったブラッドリーさんがそれを分裂させて暴れる雷雲に変えてしまった。昼寝をしていたところを雷雨に起こされたミスラさんがそれを蹴散らそうとした魔法と、雲を消そうとしたオズ様の魔法とが空でぶつかり合って激しい閃光を散らして弾け――たまたま通りかかったファウスト先生が持っていた呪い道具が共鳴して雨雲と一体化して、呪いの雨になってしまったのだ。
 まったく奇想天外で、これっぽっちも予測のできないことだった。その呪いの雨に降れないよう、賢者様に伝えようと私は走ったのだけれど、あと一歩のところで間に合わなかった。
 ……誰も悪くない悲しい事故だと私は思う。けれど、賢者様はその雨を一身に浴びて、私たちには想像もできないほどの悲しい感情に支配されてしまい、雨の中でただ一人泣いている。その姿をただ見ていることしかできないなんて、こんなにも辛いことはない。

「フィガロ先生。私たちに何かできることはないんでしょうか……」
「ミチル……。うん、そうだね。俺たちが助けてあげよう」
「賢者様はどうしてしまったのですか?」
「うーん。あの薬滴はどうやら賢者様の身体に触れて、呪具の形を取り戻してしまったみたいだね」

 フィガロ先生が言うには、雨が一つの結晶になり、賢者様の首の後ろのあたりに棘のように刺さっているという。今、振り落ちている青い雨には呪いの効果はないらしい。

「あれを抜いてあげないといけないんだけど――」

 ちら、とフィガロ先生はファウスト先生に目を配って、やれやれと言わんばかりに両手を空へ仰向けた。ファウスト先生が気まずそうなのは、雨粒が形どった結晶はもともとファウスト先生の持ち物で、強大な力を持つクリスタルを模しているからだろう。
 それにオズ様やミスラさんのような最強の魔法使いたちが放った魔力が交じり合って、なんだかめちゃくちゃな力がそのクリスタルに込められてしまった、のだと言う。

「……まあ、骨を折るだろうな」

 賢者様は魔力を持っていない。その身体の、心の根深いところにまでクリスタルはきっと届いている。ファウスト先生はため息をついて、フィガロ先生を中心とする作戦会議の輪に加わった。

「フィガロ先生、私たちも手伝います! 皆も力を貸してくれるだろうか?」
「勿論です、アーサー様。今のままじゃ賢者様が可哀想だ」
「はい。一刻も早く、悲しみから救済して差し上げなければ……」
「オズ様もいいでしょうか? 皆で力を合わせましょう!」
「…………ああ」

 率先して声を上げてくれた中央の魔法使いたちに笑みを向けて、フィガロ先生はそれから所在なさげに遠くからバルコニーを見やっていた北の魔法使いたちに声をかけた。

「君たちにも力を貸してもらうよ」
「はあ……どうして俺が。関係ないのに」
「なんで僕が? 関係ないだろ」
「俺は関係ねーだろ!」
「あるある! みんな関係ありじゃ!」
「あるある! みんな関係大ありなのじゃ!」

 スノウ様とホワイト様が北の魔法使いたちの裾を掴んで、半ば強引に輪の中心に連れて行く。北の魔法使いたちは束ねるのが難しい人たちが多いけれど、お二人の言いつけとなれば誰も破ることはできないのだ。

「賢者様の棘を抜くゲーム? それって楽しそう! 俺もやる!」
「ムル、あなたにも原因はあるのですよ? まったく困ったひと」
「俺にできるかなあ……。でも、賢者様が雨に濡れたままなのは可哀想だよね」
「そうだね、クロエ。賢者様の心が暖まるお茶の準備をしよう」

 西の魔法使いさんたちは、魔法使いらしく、気楽で、奇妙で、大変なことが起こってもいつもわくわく、ドキドキできる余裕がある。ときには不謹慎に――楽しんでいるようにさえ見えるけれど、張り詰めたシーンではその楽観的な声に安心させられることもある。

「ファウストがやるなら俺もやる」
「シノ……! で、でも、俺たちにできることがあるならやります!」

 ヒースとシノは、少し離れたところで遠巻きに立っているネロさんを振り返る。

「……わかったよ。俺も手伝う」

 二人にじいっと見つめられて、しばらく黙って目を逸らしていたけれど、ネロさんはとうとう根負けして仕方がなしと言った様子でため息をついた。なんだかんだで東の魔法使いたちも困っている人を放っておけない。皆、孤独を愛しているけれど、孤独に暮れているひとをそのままにはしておけないのだ。
 こうして賢者様を悲しみの淵から救うために全員が力を合わせることになった。

「「題して、賢者ちゃんを幸せにできるのは誰だ! 求愛大作戦なのじゃ! きゃっきゃっ!」」
「求愛?」

 両手を合わせて飛び跳ねるスノウ様とホワイト様の言葉に、私は首を傾げる。フィガロ先生は私の肩にぽんと手を置いて、首を竦める。

「棘を抜くにはあたたかい言葉が必要なんだよ。絶望のどん底から掬い上げるための、心からの愛の言葉がね」



《さあ、賢者様に手を差し伸べるのは?》

世界一の魔法使いオズ
愛ならおまかせシャイロック
情けも容赦もないミスラ
適任の王子様アーサー
愛に生きる貴公子ラスティカ
心に入り込むオーエン
適任の騎士様カイン
やめたほうがいいのにフィガロ
愛も何もかもめちゃくちゃなムル
優しい呪い屋ファウスト



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