200220 ここは誰かの宝箱の宇宙

 会議室に続く階段の一段目に足をかけたはずが、違う空間に来ていた。
 足の踏み場がない宇宙のような、辺り一面をコスモブルーに埋め尽くされた見知らぬ場所だ。手に持っていた書類がするり、ペンがするり、手を抜け出して、ひとりでに宙へと舞っていく。
 足を前に出すと、地面をとらえる感じはしないものの、ゆっくりと前に進むことができた。
「宇宙みたい。」
「ご名答。さすが賢者様ですね。」
「シャイロック!?」
 無重力のようになった身体はシャイロックに導かれるまま、すいすいと移動する。肩に置かれたシャイロックの手がポン、と一度跳ねたかと思えば、わたしの身体はそのまま上へと急上昇した。
「わあっ。ど、どうしたらいいの?」
「賢者様はそのまま。ほら、あちらを見てください。可愛い猫がいますよ。」
「ほんとだ。」
 この奇天烈な空間の中では、何が起こってもおかしくはない。だって魔法をかけているのはシャイロックだ。
 上品で、奇妙なことが大好きな彼の手にかかれば、いつだってわたしの想像を遙かに超える不思議が、処理できないスピードで舞い込んでくる。
 紫色の猫はわたしの前でくるりんと一回転して、足元にすり寄ってきた。
「よしよし。」
 頭を撫でて、それから首を撫でる。ごろごろと喉を鳴らした猫はわたしの胸元で嬉しそうに甘えている。
「わんっ。」
「あれ?」
「おや、猫ではなく犬だったのですね。失礼しました。」
 短く柔らかい猫の毛を撫でていたはずなのに、次の瞬間わたしは固くてつやつやな犬の毛に触れていた。さっきまでは、確かに猫だったのに。
 なんでとか、どうしてとか、そういったことを確かめても意味がないので、わたしはただ犬を撫でた。猫でも犬でも、目の前にいるこの子が可愛いことには変わりない。
 それに、この宇宙に連れてこられたのにはきっと、ちゃんとした理由がある。
「……シャイロック、また心配かけちゃったかな。ありがとね。」
「分かっていらしたんですか? 酷いひと。」
 シャイロックは後ろからわたしに寄り添って、無造作にひっ詰めただけの髪を勝手にほどいてしまった。
「少し根を詰めすぎでは? 日々、髪の手入れをするくらいの余裕は必要ですよ。」
「そうだね。でも、やることが沢山あって。」
「あなたの身体はひとつでしょう。ただでさえ沢山あるのですから、やるべきことには、少し待っていてもらえばいいのです。」
 それまで感じることのなかった重力が、自分の身体の中に生まれる。
 足元でしっぽを揺らしていた犬はぴょんと跳ねて、わたしの膝に乗り上げた。身体がその重みでゆっくりと後ろに沈み込んでいく。シャイロックがわたしの身体を受け止めて、そのまま一緒に落ちて行った。
 コスモブルーの視界が晴れる。
 談話室のソファの上で、わたしはシャイロックの膝に座っている。わたしが撫でていた犬はムルだった。紫色のさらさらした髪をすいて、頭を撫でると「にゃあん」と鳴いたので、それは違うよと突っ込むとムルはごろりと仰向けになった。
「賢者様は猫と犬、どっちが好き? 俺、上手だった?」
「上手だったよ。騙されちゃった。」
「だけどムル、猫のときはわんと鳴いてはいけないのですよ。」
 なんで、と食い気味にムルが疑問を浮かべたので、シャイロックはくすくす笑った。
「おかしくて笑ってしまうので。」
「あは! そうだよね、俺もおかしいと思う。うー、ワンワン。」
 シャイロックが結び直してくれた髪はこれからパーティにでも向かうのかと思うほど豪奢で、普段着には勿体ないほどきれいだった。
「では、退屈な会議をパーティにしてしまいましょう。」
「またそんなことを。」
「賢者様を癒すためなら、私たちはどんなことでも。」
「そうだよ。楽しくて、空を飛びたくなるようなことだけが正解!」
 ムルがぴょんと飛び退いた。宙に浮いたわたしの手をシャイロックがすくい取る。
「さあ行きましょう、賢者様。」
「月を見に行こう!」
 まだ昼だ。それとも、あの宇宙にいる間に夜になってしまったのだろうか。
 もう、おかしなことばかりなので、わたしは笑った。紙もペンもどこかへ散らかって落ちているだろうけれど、魔法使いがしかけた悪戯には敵わない。
 だって不思議で、へんてこで、むずむずするような、わくわくするような、そういうことが大好きなひとたちに囲まれているのだ。生きていてこれ以上に、愉快なことはあるものか。

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