200220 煉獄のアレゴリー

 春と夏のあいだの優しい風がふわっと木々を抜けて、花壇の甘い香りを運んできた。
 穏やかでのどかな午後だ。先ほどまで中庭で授業をしていたミチルとリケは、お茶をしに室内のラスティカのところへ駆けて行った。優雅なチェロの音色が遠くから聞こえる。きっとおいしい紅茶を淹れて、甘いお菓子と共にティータイムを楽しんでいる頃だろう。
 わたしはと言うと、今、木の上にいる。
「そんなところで何やってるんですか。」
「ちょうどいいところに、ミスラ。下ろしてくれませんか。」
「はあ……いやですけど。」
 相も変わらず鬱々とした表情をぴくりとも変えず、ミスラは木の下にごろんと寝転がった。長い脚が花壇の向こうのタイルにまで伸びている。
 ミスラは木枝のすきまから空でも仰ぐように、わたしを視界に入れて、意地悪にほくそ笑んだ。
「滑稽ですね。」
「そうなんです。もう、辛くて。」
「おおかたオーエンかブラッドリーの仕業でしょう。気の毒に。」
 長い手を頭のうしろに差し込んで、ミスラは億劫そうに目を瞑った。
 ミスラの言う通り、先ほど彼らのいざこざに巻き込まれてここまで連れてこられた。わたしを挟んで魔法で攻撃しあっていた二人をオズが見つけて、魔法舎の外にある林の中へ彼らを吹き飛ばしたのだけれど、残念なことにオズはわたしに気づかずそのまま行ってしまった。
「あれからもう一時間くらい経つんです。そろそろ足が限界です。」
「……。」
「寝たふりしたって駄目ですよ。ミスラ。寝てないのは分かってるんですからね。」
「ああもう。うるさいなあ。」
 《大いなる厄災》の傷の影響で、どんなにか安らかな場所であっても、ミスラはまともに寝られやしない。目を瞑っていたって、眠ることはできていないのだ。
 眠れない苛立ちを逆撫でをするわたしの言葉に、ミスラは本気でいらいらした様子で眉を寄せた。
「いっそ殺して楽にしてやりましょうか。」
 木の上のわたしをぎろりと睨む。本気で殺されるんじゃないかと肝が冷えた。
 煽らない方が良かったかもしれない。近くにオズも、双子もいない。わたし一人の命なんて、ミスラにはその辺の枯れ落ちた花弁よりもあっけなく儚いものに見えることだろう。
「下ろして欲しいなら頼み方があるんじゃないですか? 賢者様。」
「……っ。」
「やっぱり、人間は滑稽ですねえ。」
 ミスラは指の長い手のひらをこちらへ向けて呪文を紡いだ。
「《アルシム》」
 ささくれだった枝から身体がふわっと浮きあがる。
 砂糖漬けのコーティングでもされたみたいに、両手と両足が少しの身じろぎもできないように固まっている。面倒だから暴れるなという、ミスラらしい強引な手法だろう。
 ふわ、ふわ、少しだけ宙を漂ったかと思えば、わたしの身体は一気に、それはもう、とんでもないスピードで、地面へと近づいた。
「ぎゃあっ!! ……あれ?」
 柔らかく厚みのあるものにぽすっと身体が落ちる。
「あはは。酷い顔ですね。」
 目を開くと、すぐそばにミスラの綺麗な顔があった。わたしが落ちたのはミスラの身体の上だった。今度こそ殺されると思った。
 それにしても、ミスラはあはは、なんて笑うのか。
 これっぽっちも動けないわたしは、上半身をミスラの胸に預けて、添い寝をするような姿勢になっている。そんなことはどうでもいいとばかりに、花壇をさえぎる暖かい陽光に埋もれながら、ミスラはうとうと目を瞑っている。
「あ。今なら、眠れそうです。……。」
「ちょ、ちょっと待ってください。魔法が解けてないんですけど。」
 わたしが傍にいれば傷の影響がやわらいでミスラはよく眠れるらしい。それなのにミスラは甘えることを一切しないので、きっといつもまともに眠れてはいないのだと思う。
「…………。」
 ある意味、良い機会だったのかもしれない。
 ミスラは眠った。隈のある薄い頬は、黙っていれば少し陰のある美形そのものだ。
 目覚めたときに何してるんですか、と蹴飛ばされる可能性もなくはないけれど、その前にこの魔法が切れて身体の自由が利くだろう。そう願って、わたしはミスラの胸に頬を預けた。顔の向きだけは動かすことができる。
「……おやすみなさい、ミスラ。」
 眠れないのは辛いことだ。それは人であっても、魔法使いであっても同じこと。
 ミスラの身体は冷たい。わたしの体温で暖められるような気は少しもしなかった。それでも、砂糖漬けにされた身体のまま、うたた寝をする午後もたまには悪くないだろう。

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