200318 薔薇は散り王子は去って

 中庭に猫がいた。背中に黒いぶち模様のある、華奢で野良とは思えないほど高貴な足踏みをしてわたしの前で立ち止まる。
「猫だ。」
 にゃおん、と返事があった。しゃがみこんで、拳ほどの小さな頭を撫でる。
「かわいい。」
 おしゃれな身体つきの猫はずっとおとなしくしている。耳と耳のすきまを指で撫でたり、りんかくをなぞって顎の下をくすぐったりしても、ごろごろと鳴くわけでもなく、可愛い口をきゅっとすぼめたままいる。
 どこから来たのだろう。問いかけても、今度は返事がなかった。
「いい子だね。……吸っていい?」
 白い毛のふわふわした胸を撫でると、腹を仰向けにして寝そべったので、わたしは芝生にどうどうとすねをくっつけて、猫の首元に鼻先をくっつけた。  頬やくちびるに触れる毛の柔らかさは思ったとおり。だけど、あったかいミルクのように甘い、陽だまりと草の混じった匂い――は、しない。
 香水のような煙たい匂いがしている。
「……あれ?」
 眉をひそめたそのときにパチンと何か弾ける音が聞こえた。
 くちびるで触っていた細い猫毛はいつの間にかなくなって、肌触りのいいシルクの布がそこにあった。視界いっぱいに広がるのは上質なシャツとベスト、そしてわたしが顔を埋めているのは、だれかの首筋だ。
 芝生に寝転んでわたしにくすぐられているのは、猫ではなくってシャイロックだった。
「どうして!?」
「おや? やめてしまうんですか賢者様。」
 気づけば背中に手が回されている。上体を起こそうと思っても、これ以上動かすことができない。
「とても心地よかったのに。」
「ね、猫だと思って。すみません、わたし、まさかシャイロックだったなんて。」
 甘くスパイシーなシャイロックの香水の匂いが、肌に移ってしまいそうなくらい、近くにいる。喉で笑う彼の声が耳元をくすぐってわたしは、羞恥心に押しつぶされてしまいそうだった。
「可愛い人。」
 シャイロックは甘美な手つきでわたしの後頭部から、首筋を撫でた。
「猫でなければ、賢者様に撫でてもらえないのでしょうか。」
「……シャイロック。からかってますよね?」
「私は本気ですよ。さあ、思う存分吸ってください? 中毒になっても知りませんけど。」
 彼の言う通り、香水とパイプの香りのせいで、おかしくなってしまいそうだ。
 中庭の日当たりのいい芝生の上で、それから二人で日向ぼっこをした。夜になって、眠るときにわたしはシャイロックの体温を思い出してしまって、しばらく眠れなかった。

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