200712 幻影になる

 ここは蝉の鳴き声の数が少ない。山はあるけれど隅の方まで拓けていて、かつて製薬会社の開発で衛生管理が徹底された名残か、林程度におとなしく管理されている。崖にある泉から細い川が流れてはいるが、くるぶしを濡らすくらいに浅く穏やかだ。嫌な虫はいない。かろうじて、野花がてんてんと咲いている。
 管理された自然は、人の手で作ったものである。搾取のためなどおくびにも表さず、整頓された夏が訪れる。市街で育った身にはちょうどいい自然の濃さだった。この島に避暑に訪れるような人間はいないだろうけれど、それでも訪れざるを得なかった人間が快適に過ごせるように調整されている。
 仮住まいにしているシーハイブ社員寮は廊下に冷房設備がないので、外に出ているほうが風が吹いてきてまだ涼しさを感じられる。日当たりのいい廊下を駆け足で抜けて、向かいに立ち聳える看守詰所に足を運ぶあいだにも、じっと背中に汗を掻く。
 詰所の入口は太陽に背を向けていて暗く冷たい。おまけに看守たちは受付の硝子の向こう、冷房の効いた執務室で快適そうに仕事をしている。

「須田さん」

 呼びかけた相手は気だるく顔を上げ、こちらに視線を寄越すと片方の口角だけを器用に持ち上げた。

「ああ、さん。暑い中ご苦労様です」
「外、本当に暑いですよ。ここは涼しくていいですね」
「そうでしょう。ですがこれも今だけですよ」

 須田さんは立ち上がり、机に置いてあった看守帽をさっとかぶり直す。並んで置かれた紙の一枚だけを持って窓口に近づいて来る。おそらく今日の本題が書かれているのだろう。

「西日が傾いてくると地獄のように暑くなります」

 革手袋の指先が指し示すのは、西側に開いた大きな窓だ。なるほど、と頷く。受付の硝子越しに背筋を伸ばして立つ須田さんは、わたしよりも視点がだいぶ高いところにある。込み入った話をするときにはテーブルに両肘を組むようにつけて顔を近づけてくれる。
 カウンターテーブルは広いので、多少こちらから顔を近づけても体温が分かったり髪が触れたりはしない。間違っても、肌がぶつかることもない。面会室との真ん中に硝子がなくて、物の受け渡しが簡単にできるようになっていることだ。手を伸ばせば触れられる。出ようと思えば簡単にこちら側へ出て来ることだってできる。

「その手袋もマントも暑そう」
「仰る通り。夏用ではありますが、着こんでいることに違いはありませんからねえ」

 こっそりクールビズを始めようと思っている、と須田さんはこちらに顔を近づけて言いひそめた。革手袋のふちに人差し指を差し入れて、外すようなふりをする。
 冷涼で清閑とした看守詰所は、職員と看守の話し声と、たまに通る風の音くらいしか雑音がない。特にこちら側は入口を開け放っているので、自然の音と、太陽のあたたかい匂いくらいしかしないものだ。
 須田さんから冴えた甘い香りがして少し驚いた。ぬるくなった空調をすり抜けて、きりっとした、それでいて追いかけてしまいたくなるような甘い匂いが、まるでわたしの身体を侵食するように漂ってきた。良い匂い。
 この静粛な自然にあふれた場所で唯一と言ってもいい、色気を感じさせる甘ったるい香りだ。

「……どうかしました?」

 街で暮らしているときはこんな匂い、どこにでもありふれていたはずなのに、須田さんの香りはどこで嗅いだこともない未知のものに感じられた。

「いえ……その。良い匂いだなと」
「え? ああ。きっと香水の香りが残っていたんでしょう」
「香水つけてるんですか?」
「ええ、ハンカチにほんの少し。さん、鼻がいいんですね」

 須田さんはそれ以上、香水の話をしてはくれなかった。もっとその匂いを味わいたいと切り出すことは、なんだかはしたないことのように思えた。正直に言えば須田さんはハンカチを取り出してくれたのかもしれない。あるいは、煙に巻かれて有耶無耶にされていたかもしれない。
 遠ざけられてしまうとかえって求めてみたくなってしまう。人間はややこしいけれど、そういう風にできている。太陽の匂いがたちこめる無音の詰所で、わたしはすっかり取り憑かれている。あの甘く、冷めた香りをもう一度味わいたいと、感覚を研ぎ澄ませている。

「聞いてますか、さん」

 はっとした。高いところから須田さんの瞳がこちらを見つめて、惹きつけるように歪んだ。

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