200712 陸に来てはだめだ

 海面を照り返す太陽のまぶしさが苦手だ。汗を掻くし紫外線に慣れていない肌がじりじりと日焼けをするから。それに岩肌を打ち返す海の水飛沫が苦手だ。眼鏡に潮がつくと汚れるし身体がベタベタになるから。あと、かんかんに熱された石礫を歩くのも苦手だ。ビーチサンダル越しでも熱が伝わるし痛いから。他にも、海辺で遊んでいる男女のきゃっきゃと輝くような声色も、海の家にいるいかついお兄さんも、サーフボードもビーチボールも何もかも、僕の敵っていう感じで存在感を放っているから、苦手だ。
 僕はとにかく海が嫌いだ。苦手なところを言い出せば切りがない。僕が海に行かない理由は無限の海にたゆたうプランクトンのごとく存在するけれど、海に行くべき理由は岩浜をくまなく探したってどこにも落ちていない。
 それなのにどうして今僕は海に来ているんだろう。

「門司くん、行くよー」

 どうして今僕はさんが投げるビーチボールを受け止めているんだろう。

「ちょっとぉ、ちゃんと打ち返さないとビーチバレーにならないじゃない」
「……ごめん」

 どうして今僕は慎之介さんに叱られているんだろう……と考えたところで僕は思考を放棄することにした。暑くて脳が正常に働かない。とりあえずボールを前に放り投げると、さんと慎之介さんは勝手に楽しそうに水飛沫をあげながらボールに向かって駆け出して、取り負けたさんは海水に肩までつかっていた。信じられない。
 びしょびしょになって立ち上がるさんの姿を真正面から見ていられなくて視線を外した。慎之介さんの投げたボールが僕の頭に当たって、「余所見しないで」とまた叱られてしまった。

「はー、久しぶりに海なんて入った」

 ビーチバレーにさんざん付き合わされてから岩場に上がる。農園のおばあさんがパラソルの下でサンドイッチやフルーツの入ったお弁当を広げていて、さんは熱い岩を飛び跳ねるようにして走っていく。
 僕よりもずっと日焼けに弱そうな白い背中でリボンの尾が揺れている。細い紐のような水着は見ているこちらの方が心もとなくなる。シーハイブが水着までグッズ販売していることにはちょっと引いたけれど、製薬関連だけでなくリゾート開発の子会社を持っているので、こういった離島ではサービスの一環として重宝もするのだろう。
 女性の水着姿なんて初めてこんなに近くで見た。
 それもさんのだ。僕はないはずの眼鏡を中指で押し上げる癖をしてから、行き場のない指先で頬を掻く。髪についた海水が顔を伝って、気持ち悪い。潮がべったりとまとわりつく感覚は、あまり体験したことがなくて慣れない。

「門司くんどれにする? トマトとレタス、ハムチーズ、卵サンドがあるよ」
「じゃあ……ハムチーズ」

 海水で萎れた手を軽くふいて、サンドイッチを受け取る。サランラップで巻かれたそれにはパンから溢れるほどふんだんに具材が詰め込まれている。ビニールシートの中で一番日陰になっている場所に座ると、さんも隣に並んだので、かなり驚いた。

「海、ちょっと入っただけなのに疲れたね」
「天気もいいし……僕は最初から疲れてる……」

 視線を少し横にずらす。さんはいつの間にかパーカーを羽織っていた。フードのところにシーハイブのロゴが入っている。僕よりもだいぶ海水につかっていたさんの髪の毛先はしっとりと濡れて、くるりと巻き上がった先にたっぷりと雫を作っていた。

「でも門司くんまで来てくれると思わなかったな」
「……慎之介さんに無理やり連れてこられただけ。この前、ドーナツ貰った借りがあって……」

 さんは笑うときよく顔を上向けるので、その拍子に雫が落ちた。ぽつりと音がしたように思えた。

「さすが慎之介」

 小指の先で、落ちた毛先を耳に引っかける。その拍子にさんの肩に引っかっていただけのパーカーがすとんと落ちて、白い肌がとつぜん見えて僕はどきっとした。
 パラソルの下でもよく分かる。色のない素肌にコントラストを作る、ぺたぺたした潮っぽい海水の雫。やわい身体をなぞるようにつるりとすべり落ちていく珠のようなそれを、僕は目で追ってしまう。鮮やかな光景だった。まるで夢かとも思った。
 一メートルも離れていない場所にこんなにも美しいものが傍にあって、潮風を帯びてきらきらと輝いて、僕を見て、僕に笑って、僕の名前を呼んでいる。

「ねえ門司くん、次はちょっと沖まで行ってみよう」
「え……嫌だけど」
「せっかく来たんだし泳ごうよ。一回濡れちゃったらあとはもう同じだよ」

 同じなものか、と思ったけれど黙っていた。
 僕はたぶんさんと出会う前の自分にはもう戻れない。戻りたくても戻れない。戻ろうとは思わないけれど、戻れたらどれだけ楽かとは、思う。
 さんは立ち上がってそれから海へ駆けて行った。熱い岩を素足で飛び跳ねる姿は、海水に飛び込んでようやく息ができる人魚かなにかみたいに見えた。

inserted by FC2 system