200712 濡れてもいいよ

 梅雨は終わったはずなのにまだちらほら雨の日がある。この島の夏は東京で感じるそれよりもずっと涼しい。緯度や経度的にはさほど変わりがないはずなのに、高いビルやコンクリートがなく自然に囲まれているだけでこうも体感温度が違うのか、と驚かされた。
 木陰は涼しいし虫も少なくていい。林に踏み入ると川から涼しい風が漂ってくる。車や人混みの音がなくて、鳥の声や木の枝や葉っぱがざあざあと揺れるジャングルみたいな雑音がするだけ。もう、市街の喧騒に戻れなくなりそうだ。このままほどよい自然とレトロな文明が融け合った島で一生を過ごしてもそれはそれでいいかもしれない。どうせ僕を待っているものは何もないのだから。
 調べたいものがあるからついて来て欲しいと、さんに呼び出された午後は小雨が降っていた。傘を差すか迷うくらいで、でも晴れ間があるから濡れてもどうせすぐに乾くだろう、というくらいの天気だ。それでも思いのほか地面はぬかるんでいて集合場所に少しだけ遅れた。さんは立って、そこで待っていた。

「ごめん……遅くなった」
「ううん、大丈夫。こっちこそ急にごめんね」

 とっさにやり取りした台詞はお約束の古めかしいドラマのようで、もっとばかばかしい気持ちになるかと思っていたけれど、そんなことはなかった。急に、二人きりだということを突きつけられてしまった。たとえ何の面白味もない、雑然とした林の中だとしても、デートと言えばそうとも捉えられる。

「林の奥のほうに崖があるみたいで、その辺に行ってみたくて」
「そうなんだ。でもなんで……」

 なんで僕、と聞こうとしてやめたつもりだったけれど、さんは僕が何を言おうとしたのか、もう分かってしまっていた。

「一人で行くのはやめろって、チアキ……担当してる収容者さんに言われたの」

 それは分かってた、だから聞かなかったのに。何とも言い難い感情が頭の中をぐるっと回って、ふいに目の前が霞んだ。  たしかにこの島に変質者はいないにしても、野生動物くらいはいるかもしれない。それにさんは好奇心旺盛が過ぎるから、山肌や崖から落ちたり水辺ですべって転んだり、色々と怪我をしそうではある。
 チアキとかいう収容者はさんのそういうところを知っていて心配しているのだろう。自分は外に出られないから、守ってあげられないから。

「付き合ってくれる人、門司くんくらいしか思いつかなくってさ」
「まあ、いいけど……」

 少し湿った道も歩いているうちに徐々に乾いてきた。林の中は湿度が高く、鬱蒼とじめじめしている。歩いているだけで汗を掻く。立ち止まった木陰でさんがバッグから水のペットボトルを取り出して、口をつけた。僕も水を持ってくればよかった。僕の視線に気がついたさんはあろうことかそれを、こちらへと差し出した。

「飲む? いいよ」
「え……いや、それは……さすがに」
「わたしは全然平気だよ。熱中症になったら困るし」

 拒む僕の手指にペットボトルが押しつけられる。水滴が跳ねた。さんはいきなりハッとして、「門司くんがいやだったら無理しないで」と、変に気遣うそぶりを見せた。

「そういうわけじゃない、けど……気持ちだけで……大丈夫」

 ここで、ありがとうの一言で簡単に受け取れたら僕は今までの人生で苦労していない。暑いのとは違う汗を掻いた。微妙な沈黙が訪れて僕はこの林の木々に紛れて消えてしまえたらいいと願ったけれど、そういう空気もさんがすぐに打開してくれた。

「この辺にも自販機とか置いてあったらいいのにね」
「……管理人さんに頼んでみる? きっと、だめだろうけど……」

 さんはいつも空を仰いで太陽のように笑っている印象が強いけれど、くすっと喉を鳴らして笑ったりもする。静謐な図書館の中でさえつい、笑い声をあげたりする人なのに、たまにそういう笑い方をしているのを見ると僕は、なんとなく落ち着かなくなる。他にはどんな表情をするんだろう、とか考える。
 差分があるなら見せてくれ。

「着いた」

 山道を歩き続けると海側に面した崖に出た。開けていて、崖の下にも原っぱが広がっている。花の咲いた跡がある。枝の伐られた木もある。未開の地という感じはこれっぽっちもしなくて、むしろ誰かの手できっちり管理されている丘に思えた。

「なんていう花だろう」
「さあね……」
「わあ、海風が気持ちいい……」

 さんの興味はぽん、ぽんと移り変わる。また、小雨が降ってきた。肌に落ちては馴染んで消えていくくらいの弱い雨。崖のへりまで足を進ませるさんの後ろ姿を眺めて、少し不安になった。足を滑らせたりしないだろうな。

「ねえ、あんまりそっちに行ったら危ないよ……」
「大丈夫、気を付ける」

 なんで自信満々にそう言えるんだろう。へっぴり腰で崖の下を覗きに行ったさんは、すぐに踵を返して戻ってきた。「怖かった」と言いながら笑っている。

「崖の下には何もなかったよ」
「……そう」
「でもいい探検になった」

 あんたはいつもこうだから、あいつも心配で堪らないことだろう。
 その気持ちが僕には分かる気がした。分からないままでいた方がきっと幸せだった。だけど、いざというときにこの手を差し伸べることができるのは、ある意味で幸せなのかもしれない。少しは、救える。助けてあげられる。守ってあげられる、かもしれないから。

「本降りになる前に帰ろっか」

 コンタクトレンズに変えてから眼鏡のときよりずっと物が見えるようになった。さんの短い睫毛の上に雨粒が落ちて、それから瞬きをすると涙のように頬を伝って落ちるのが見えた。

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