200809 欠落で在り続けるために

 なあにそれ、僕が悪いっていうの。
 形の綺麗なくちびるからそんな言葉が飛び出してきたときは、小学生の子どもを相手に喧嘩でもしているような気分にさせられた。何百年も生きているくせにオーエンは掴みどころも捉えどころもないし、わたしたちの間にはいまだ決着のつけどころもない。
 いつか帰るそのときに受け止めきれない悲しみを味わうよりかはずっとこの距離でいるほうが健全なのかもしれない。
「それはネロにお願いして作ってもらったシュークリームだったんです。」
 おやつの時間に皆に振舞ってくれるものとは別に、わたしが作りたいからとねだってネロに用意してもらった試作品をオーエンに奪われた。
 ネロが一瞬で生クリームを泡立てる魔法を見せてくれているすきに、遊びに来た鳥のように窓辺から静かに忍び込んで、いたずらする猫のように空のボウルを床に落として、くちびるの端っこにカスタードクリームをつけながら、オーエンはシュークリームを盗み食いしていた。
「僕は食べちゃいけないって言うの? いじわるな賢者様。」
「そうではなくって……。それは見本だったので困るなって。」
「ふうん。でも僕はこれが食べたかったんだ。かじったら甘いのが内臓みたいにドロッとこぼれてくる、頭蓋骨の形に似たお菓子。」
 おいしくなさそうな喩えはさておきオーエンがシュークリームを食べたがっていたことは、知っていた。朝、中庭で会ったときにそんなふうに零していたとクロエが教えてくれた。だからこそ作ろうと思ったのだ。
 今日のおやつは手の込んだフルーツサンドの予定だったけれど、ネロはわたしにシュークリームの作り方を教えてくれるためにそれを簡単なクッキーに変えて時間を作ってくれた。
「ネロ、すみません。せっかく作ってもらったのに。」
「気にするなよ、賢者さん。あれがなくたって作れるさ。」
 わたしの我儘に付き合ってくれているネロの手をこれ以上煩わせるのは気が引けた。ネロは優しいので、何があったって最後までわたしを手助けしてくれるだろうと思ったのだ。
 シュガーの瓶や、バニラビーンズ風のきのみが入った小皿なんかをてきとうに押しのけて、オーエンはキッチンの窓辺にどうどうと鎮座している。わたしとネロをじろりと見やって先ほどの一言をつぶやいた。
「僕が悪いっていうの。」
 どう考えたって悪いのは勝手に盗み食いをしたオーエンだと思うのだけれど、彼の言いぶりはまるでわたしたちにも非があるようなそれだった。
 不機嫌なオーエンになんと言って宥めればいいのか、わたしには見当がつかない。あなたのために作っていたシュークリームだからと、そんな正直なことを言って落ち着かせる気にはとてもなれないし、そもそもどうして不機嫌になっているのかも分からないのだ。
「……いいえ。ネロのシュークリームは美味しいですし、食べたくなるのも当然ですよ。」
 思いのほか言い方が冷たく喧嘩腰になってしまった。案の定オーエンは顎をしゃくって、眉根を寄せてこちらを睨みつけている。
 それだけなら、まだよかった。オーエンは窓からすとんと飛び降りて、わたしの方へつかつか歩み寄り、生クリームの入ったボウルを持っていたわたしの腕を掴み上げた。転がりかけたボウルは間一髪のところで、ネロが受け止めてくれた。
「そうだね。そいつの作るお菓子は美味しいよ。賢者様は不器用なんだから、慣れない真似しないほうがいいんじゃない? お菓子がまずくなったら困る。」
「そ、そんなこと。オーエンには関係ないじゃないですか。もう今日のおやつ、食べたんですよね?」
 色の違う瞳は彼のものではないからだろうか、じっと見つめても感情が読み取れない。少しも揺れないし、わたしを映しているのだかいないのだか、不安になるほどにただ美しく光っている。
 端正な顔立ちにはなんの表情も浮かんでいない。わたしにはそれが怖くて、少し怯んでしまった。ネロの方に無意識に寄せた身体を、オーエンは引き離すようにわたしの腕を強く、引っ張った。
「痛っ。」
「関係ある。僕は僕が欲しいものを奪うだけだから。」
「……欲しければ勝手に盗み食いをしてもいいってことですか。」
「そうだよ、賢者様。もう忘れた? 僕は北の魔法使いだよ。」
 なんだって、奪われた方が悪いんだ。
 シュークリームたった一つのことでどうしてこんな風に向かいって、言い合いをしなければならないのか、なんだか悔しくてわたしは、歯噛みした。オーエンはそれを見てはじめて、嬉しそうにくちびるを釣りあげて笑った。
 ちらりと紋様の入った舌がくちびるから覗いて、わたしを挑発するように動く。
「さっきのみたいに、賢者様に噛みついてはらわたをドロッと引きずり出したっていいんだよ。そうしたら僕も少しは気が晴れるかも。」
「こ、怖いこと言わないで。」
「怖い? 僕を最初に怒らせたのは賢者様のくせに、何言ってるの。」
 オーエンの手から離れようとして、離してくれなくて、わたしたちは無様なダンスみたいにクルリとその場で回った。ネロに助けを求めようとして、振り返ろうとするとまた腕を引かれて身体が一回転する。
「オーエン、やめてください!」
「いやだ。その白い髄液みたいに掻き回してあげる。」
「目が回る……!」
「賢者様、ドロドロに溶けてなくなっちゃうんじゃない。」
 急に足元が浮き上がって、わたしたちはその場でくるくると円を描いて躍るように回り始める。オーエンの魔法だ。ネロがどうしているかも、どこにいるかもすぐに見えなくなった。回転のめまいと、恐怖のあまりわたしは思わずオーエンにしがみついて振り落とされないように身体を縮こまらせた。
「やめて……!」
「怖い? やめてほしい?」
「オーエン、やめて。お願いです。降ろしてください。」
「あはは! どうしようかなあ。」
 わたしの頭の上でオーエンは笑った。嬉しそうに、おかしそうに、愉快そうに、いとおしそうに。
 顔を上げてその顔を見ようとすると、オーエンは阻むようにわたしの頭を掴んで、髪の毛をくしゃりと掴んだ。決して痛くはなかった。
「すごく可愛い。」
 賢者様、ずっとそうしていてよ。子猫でも慈しむように柔らかい声をわたしの耳元に注いで、オーエンはそれから、泡沫のように姿を消した。
 残されたわたしは目を回しながら、キッチンの床に崩れ落ちてぼんやりと、空っぽの窓辺を眺めた。

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