200813 かくて君は郷愁を閉じる

「帰るだなんてとんでもない。ずっと此処にいてくださいね、賢者様。」
 そんな呪いのような言葉を歌ったのは誰だったろう。
 後ろに控えていた光の扉がぱたんと閉じてたちまちにわたしはこの広大で拓けた夢のような世界の、がけっぷちなのか街の真ん中なのか分からない知らない場所でぽつんと立ち尽くしていた。まるでこの世界が、この場所がわたしのこの身があってしかるべきところだとでも言うように、身体は鉛を飲み込んだように重くじっとりと汗を掻いてそこから一歩も動けなかった。
 市場は続いている。うららかな春の日差しが降り注ぐ。人混みはさらに盛況して、道行く人たちは質素ながらもめかしこんで果物や魚なんかを買って歩いている。アクリル絵の具をそっと乗せたような薄青い空に一縷の雲が流れて、箒に跨った影がそれよりもずっと速いスピードで飛行していくのが見えた。
 城下は続いている。赤い煉瓦調の街並みは教科書や旅行ガイドで観るヨーロッパの風景に似ている。振り返るとわたしの後ろには長い影が伸びて、此処に立っていることをむざむざと実感させられた。わたしの服は街を歩くひとたちのそれと大差はない、まったくこの景色にしっかりと馴染んでいる。
 箒に乗った魔法使いたちの影が頭上を通り過ぎた。飛行機やヘリコプターのように騒音を沸き立てることもなく、風のように静かに去っていく。わたしがいつも喩えに出す物ものが、なんであったかを思い出せなくなる日の方がずっと近い気がした。
「待っ……。」
 誰かに向かって伸ばした手は空を掴み、重力に従って腹に落ちる。
 夢を見ていたらしい。わたしは私室にいた。のどかな春の日差しの下で、市場で買い物をしていたのは現実ではなく夢の中だったようだ。よく考えれば今は春なんかではない、夏の終わりだ。元の世界ほどではないが朝でもそれなりに気温が高くなり、庭には色の鮮やかな花々が咲いたりする季節である。
 こういう、孤独や閉塞感みたいなものを感じさせる夢は近頃になってよく見るようになった。
 朝食を味わっているうちに、胸を占める寂しさは薄れて忘れていく。一緒に暮らしている魔法使いたちとの日々は和やかでありながらも賑やかで、孤独を噛むような時間の方がずっと少ない。彼らはわたしよりもずっと長く生きている長寿の者なので、子をあやすほどの感覚でわたしのことを飽きさせないよう、泣かないよう、逃げ出さないよう、甘えさせてくれている。
「フィガロ先生に相談してみたらどうでしょう。何か効果のある薬などを処方してくれるかもしれません。」
 悪い夢――とは一概に言い難いのでそれを伏せて、やや不眠がちだと呟くとレノックスはそうアドバイスをしてくれた。
 彼にとってフィガロは信頼できる師であり同士だ。信奉していると言っても差し支えない彼に比べるとわたしは、まだどこかこの世界の魔法や医療のような存在には全幅の信頼を置いているわけではないので、飛びつける話ではなかったけれど、彼の心遣いを無碍にも出来ずにそうすると言ってただ頷いた。
 今思えばわたしはそう言ってもらえることを分かっていてレノックスに漏らしたのかもしれない。
 フィガロはこの時間、私室にいる。南の国の若い魔法使いたちの午後一番のレッスンが終わって一息をいれるタイミングだ。部屋の戸をノックして呼びかけると、案の定きちんと返事があった。「はあい」と、気の抜けるような柔らかいそれは心を落ち着かせてくれるたぐいのもので、情緒の乱れを自覚している身体には心地良い。
「どうしたの賢者様。どこか悪い? ああいや、悪くなくても歓迎するよ。さあ入って。」
 診察室に通される患者の気持ちで、部屋の中に入る。フィガロは机に向かい、わたしをその前に置いた椅子に腰かけるよう促す。一人でに動き出した茶器がわたしの前に揃い、温かい紅茶をそこに蓄えた。
「実は……最近あまり眠れなくて。夢見が悪いというか。」
「へえ。疲れているのかな。」
 問診をされる。紅茶に口をつけ、答えているうちに瞼が下がってきた。ハーブティーの良い香りとあたたかさが身体を満たして、気を抜けば寝落ちてしまう予感がした。
「安眠効果のある飲み物だよ。こんなにすぐ効くってことは、よっぽど悪い夢が続いていたんだね。」
「フィガロ……。すみません。力が抜けてしまって……。」
「少し寝ていくといい。良い夢が見られますように。」
 薄っすらと微笑んだフィガロがわたしの身体を抱き上げて、自身のベッドへと運んでくれた。「おやすみ」と呟いてわたしの額にキスを落とした。子どもにそうする親のようだとも、恋人にするような甘い仕草だとも、思った。
 一瞬、目を閉じた、ただそれだけのつもりだったのに、目覚めた頃にはすっかり夜が落ちていた。
 薄暗闇の中に、ほのかに柔らかい灯かりが宿っている。机に向かって何かに目を通していたフィガロはわたしが起きたのに気がつくと、書物を置いてこちらへ近づいてきた。
「賢者様。どう、ぐっすり眠れた?」
「え……あ、はい、とても……。」
「ふふ。眠りがだいぶ深かったのかな。ずいぶん呆けてしまっているね。」
 もう夕食の時間もとっくに過ぎているよと、フィガロはからかうように言った。深呼吸をすると少しずつ視界が、思考がクリアになっていく。こんなにぐっすりと眠ったのは久しぶりだ。起きてすぐに前後不覚になるくらいには、しっかりと眠ることが出来たらしい。
「ありがとうございました。フィガロのおかげで、だいぶスッキリしました。」
「それは良かった。また眠れなくなったらおいで。」
 フィガロの夕食の時間まで遅らせてしまったことは申し訳なかったけれど、フィガロはなんとも思っていない様子だった。
 それからというもの、悪い夢はぱたっと止んだ。それを見ていたことさえ忘れてしまうほど。一方でそれは、わたしはこちらの世界でそれほどまでに何度も、何度も、寝起きしているということになる。
 不思議と怖くはなかった。真新しかったへんてこな日々が、いつのまにかありふれた日常へと変わっている。ただそれだけのことのように思えた。



 冬が近づいている。館の中には身体を冷やさないよう、何らかのエネルギーによって暖房がつけられているので、快適だった。北の魔法使いたちがたまに壁やら窓やらを壊す騒動を起こすけれど、それも魔法ですぐに修復されるので凍えるようなことは起こらなかった。
「帰るだなんて言わないよな。ずっと此処にいてくれよ、賢者様。」
 聞き覚えのある声がして、辺りを見回すと中庭の真ん中あたりに誰かが立っている。彼が今、わたしに話しかけたんだろうか。にわかには信じられない言葉が聞こえた気がしてわたしは数秒、固まって視線を迷わせた。なんて返事をすればいいのかがまったく分からなくて声が出なかった。
 やっとのことで喉から絞り出したのはああ、とかうん、とかそういう、曖昧な相槌だ。
 少し冷静になってくると目の前にいる彼が誰であるのか、よく分からないことに気がついて、つまりこれは夢なのだと自覚した。今は冬だ、なのにこの中庭には雪がないどころか、真夏のようなぬるい温度が漂っている。鮮やかな花も咲いて、街灯に照らされてほのか淡く光っている。
 たとえ夢であったとしても帰るなんて言わないよ、とは言えなかった。けれど強い言葉で否定をすることもできなかった。
 シャボン玉のようにきらきら輝く鱗粉があたりに舞う。どこからかぜいたくなパーティの歓声や拍手、ダンスを誘うオーケストラの音楽が流れてくる。ふと、後ろにいる誰かから「踊りませんか」と聞かれた気がした。わたしは首を振る。
「いえ……。」
 振り返ろうとすると、落ちるように夢から醒めた。
 冬とは思えないほど寝汗を掻いている。あの場所がどこだったのか、あの声は誰のものだったのか、それが分からないことよりもずっと、わたしがよく似た夢を夏にも見ていたことを思い出して怖くなった。
「フィガロ、いますか。相談があります。」
 どうぞ、と返事があったのちに恐る恐る扉を開くとフィガロは机に向かってコーヒーを飲んでいる。貧血や頭痛などの体調不良が起こるたびにこうして診察をしてもらっているけれど、今回はそれとは少し違う。
 夏のあのときと似ている、あるいは、同じたぐいのもので、漠然とした不安を打ち明けるだけの診察だ。フィガロは嫌な顔ひとつせず、わたしの表情をじっと見据えて、恐ろしい胸の内をゆっくりと紐解くように問診をしてくれる。
「この紅茶を飲んで。特別なシュガーを溶かしてあげる。」
 やっぱり、少し疲れているのかもしれないと、以前と同じことをフィガロは言った。掌から浮かび上がるように形を成したのは星型のシュガーだ。フィガロは呪文も呟かずにそれを砂状の粉にして、わたしのティーカップに注いだ。
 ハーブティーはほのかに甘みを増し、喉に流し込むたびに鼓動が穏やかになり、また瞼が下がってくる。危ない薬みたい、とふざけて呟いたわたしの言葉にフィガロは口角を持ち上げて、否定も肯定もしなかった。
 視界がふわふわした霧のような、綿あめのような何かに覆われる。眠ろうとしている身体が椅子の背にくずれるように凭れたけれど、瞼を閉じないように、必死に意識を繋いでいる。おとなしく眠りに落ちてしまった方がずっと楽だと分かっていた。けれど、そうするのは少し怖かった。
「大丈夫だよ。俺がついてる。」
「……フィガロ……わたし、やっぱり……部屋に……。」
「だめだよ、賢者様。帰るなんて言わないで。」
 ドクンと呼応した心臓はまるで跳ね上がるのを何かに止められているみたいに、穏やかで一定のリズムを刻んでいる。色白で骨ばった指先がわたしの頬を、首をゆっくりと撫でている。わたしは身体を動かすこともできずに黙ってそれを受け入れて、ついには、堪えきれずに目を閉じてしまった。
「ずっと此処にいていいんだよ。」
 高く澄み渡った秋空にはひこうき雲と、それに絡むように飛び交う魔法使いたちの箒の軌跡がよく似合う。ひこうきというのはどんなものだったろう、あの線のような雲のことを誰かがそうやって呼んでいたので覚えているけれど、不思議な名前だと思う。
 本当はずっと深い深い森の、浅い部分は踏みつけられた道が散策路になっていて、日光浴をするには丁度いい場所が拓けている。肌寒くなりはじめた風が木々のあいだの葉を、野道に咲く小花を揺らす。光にふわっと跳ね上がる胞子は妖精のものだ。
 鬱蒼とした森に差し込む一陣の木漏れ日は、少し前を歩く人をやわらかく映し出す。彼は、こちらに振り返って手を仰向けに差し広げる。色の白い、細長い指。どうしてもそれを捕まえたくて手を伸ばすと、骨ばった指がわたしのそれを捕らえて離れないように指をぴたりと組み合わせた。
 そろそろ帰ろうかと彼が言ったので、わたしは首を振る。もうちょっとこの穏やかな陽光の中を散歩したい。できればあなたと、なんて呆けたことを呟きそうになって口を噤み、この心地良い世界にぴったり似合う言葉を探した。
「わたし、まだ帰りたくありません。ずっと此処にいたいです。」
 この道の奥はどうなっているのか、見に行かなければいけない気がして、そう告げたわたしの声は豊かな自然の中で何よりも際立って響いた。わたしの手を引くひとは低く、甘い声で、そうだねとたっぷり頷いて、口角を持ち上げて美しく笑った。

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