201201 ネバーランドをゆくひと

 もう少し素直になればいいのにと真琴に言われたけれど、素直になるも何もわたしは自分の中にある素直な感情にいったいどんな名前がついているのかもよく分かっていないので無理な話だ。
 考えるときに口角が下がる。考え込むときに唇がとがる。その癖のせいでわたしはよく不愛想だと誤解される。不機嫌になっているわけではないのに、機嫌が悪く見えてしまうらしい。
 わたしだって大学生の端くれなので、他人の前ではそれなりに良く見えるように口角を上げたり、つとめて笑顔を作ったりと努力している。家族や親しい友人の前ではうっかり気が緩んでしまうときもあるけれど、彼らはわたしを咎めないのでそれでもよかった。

「最近、楽しそうだね」

 高校一年生のときに同じクラスになった七瀬遙は、水泳の天才だった。偉才といってもいいだろう。きっとこれから日本の水泳界を牽引していく立派な人になる。
 わたしと遙は高校三年間ずっと同じクラスで、別に大して仲が良かったわけでもないけれど、初めて同じクラスになる子たちよりは少し彼のことを知っているからと何かとペアにさせられた。遙はきっと人づきあいが苦手だ。彼が自分から話しかけるのは、幼馴染の橘真琴だけだった。真琴は優しい人柄で、遙と違って世話焼きなのでわたしもすぐに打ち解けた。

「別にそんなことない」

 一緒に日直をしたり、当番をしたり、隣の席に座ったり。ただそれだけの間柄でも、三年間同じ教室に通っていればそれなりに話すようになる。わたしたちはきっとお互いに黙っていられる空気が心地良かった。そのうちわたしは自分の口角が下がっていることを忘れるようにすらなった。

「遙は大学、楽しくないの?」
「……別に普通」

 遙たちと大学はバラバラになった。入学して三か月くらい経って、渋谷でばったり会ったときになんとなくお茶をして、それから月に一回くらいは真琴を交えて会っている。
 大学の友達は刺激的で、高校生の頃の自分が聞いたら驚くような時間をわたしは生きている。髪を染めたし、カジュアルなジーンズばかりではなく大人びたスカートも履くようになった。
 わたしが少しずつ変わるたびに真琴は似合うねと微笑んでくれた。遙は、ただそっぽを向いて黙っている。いつも通りだ。
 遙と真琴は変わっていない。あか抜けて、より水泳にのめり込んで夢中になっているみたいだけれど、変わっていない。

「俺、コーヒー買ってくる。ハルはブレンドでいいよね。はどうする?」
「わたしもブレンド。ありがとう」

 表参道に行きたいカフェがあると言うと二人が付き合ってくれたけれど、三時間待ちと言われて諦めた。少し散歩して見つけたコーヒーショップでテイクアウトをして、その辺のベンチに座って飲むことにした。
 もうすぐ冬が来るからこうして秋空の下でコーヒーを飲むのも最後になるかもしれない。遙は寒いのが嫌いだ。

は楽しいのか」
「え?」
「大学」

 ぶっきらぼうな会話。わたしは、ああと相槌を打って、空を仰ぐ。

「楽しいよ。いくつかサークルに入って友達もできたし」
「そうか」
「自分が変わっていくみたいで楽しい」

 真琴が店頭でコーヒーを受け取ったらわたしもそこへ行こうと思った。三人分のカップを持つのは熱くて大変かもしれない。
 遙の声が途切れたので、そこで会話は終わりかと思った。ベンチから立ち上がって真琴の方を見る。あと一人で注文のタイミングが来そうだ。吸い込む空気が冷たくて鼻の奥が痛くなる。

「でもは変わってない」
「……そう? 髪とか、服とか、変わったと思うけど」
「たしかに髪は少し伸びた」

 それだけ? 髪型も変えて染めたし、メイクや服装だって変えたのに。
 わたしは遙に変わったと言ってもらいたかったのだろうか。変わったと言ってくれたら少しは楽になれる気もしたし、変わっていないと言ってもらえたら、嬉しいと感じたかもしれない。分からない。
 わたしは自分の本当の気持ちすら分からないまま、絡まって痺れて連なるような時間の中に生きている。戻れない。踏み込めない。壊せない。帰れない。
 遙と真琴はあのときから何も変わっていないのに。

「変わったって言って欲しいのか」

 何にも言葉を返せなかった。隣で遙が立ち上がって、わたしの隣に並ぶ。真琴はもう三人分のコーヒーを受け取って、その大きな手で何の苦労もなく持っていた。こちらへ向かって歩いている。
 可愛くなったとかきれいになったとか、そういう風な言い方をしてくれるなら、わたしだって。

「……口角が下がってる」

 遙はふいに笑って、わたしの顎を手のひらでつかんだ。忘れていた。考えごとをするときに口の端が下がること。さっきからずっと下がりっぱなしだったこと。

「考えすぎだ」
「……普通だよ」
「普通ってなんだ」

 さあ、分からない。さっき遙だって普通と言ったくせに、それを返すのは狡い。
 そんな風になんだってはっきりと言葉にできる遙の強さが、わたしは眩しくて羨ましい。
 真琴はわたしたちにそれぞれコーヒーを手渡してくれた。少し気まずそうにはにかんで、遙に見咎めるような視線を送る。

「びっくりしたよ。さっき、その……キスでもするのかと思ったから」

 わたしの顔に触れたとき遠目にはそう見えていたらしい。遙はさして気にも留めていない様子で適当な相槌を打った。コーヒーのスリーブに書かれた文字に目をやりながら、数拍の間を置いて、はたと呟く。

「なら、しておけばよかったな」

 驚嘆の声を上げたのはわたしだけはない、真琴も同じだった。
 遙は楽しそうに笑った。高校の頃と何にも変わっていない、屈託のない笑顔で。

inserted by FC2 system