201201 さまよう真夏

、キスしたことあるか」
 炎天下に頭がおかしくなってしまったのかと思った。
 夏也くんの手を掴む力がうっかり緩んで、わたしはもう一度からっぽのプールの中に逆戻りするところだった。朽ちかけたプール清掃のバイト中、鉄製の階段はすっかり錆びていて、二人でプールの中へ下りたらそれきりカラカラと音を立てて崩れ落ちてしまった。
 片道切符の階段はホラー映画の常とう句だ、と夏也くんはわざと低く呟いて、振り返ったわたしに「わっ」と大声を上げて怖がらせる。
「びっくりした! ひどい、夏也くん」
「あはは! 悪い。暴れたら転ぶぞ」
 夏也くんの言う通り、コケや雑草の生したプールは足場が悪くて、汚れてもいいと履いてきたはずのサンダルを一歩、二歩と動かすだけでも嫌気が差すほどだ。
 帰り道も絶たれてしまって身動きが取れない。一方の夏也くんはけらけら笑いながら、プールのへりにさっと手をかけてあっという間にプールサイドへと戻って行ってしまった。わたしを置いて、だ。
「あいつらに知らせてくる。はしごを探してもらわないとな」
「ま、待ってよ」
「んー。どうしよっかな」
 夏也くんはしゃがんで、膝の上に頬杖をつく。意地悪げにニヤニヤと笑いながらわたしを見下ろしている。
 あいつらというのは、一緒にプール清掃のバイトにやってきたクラスメイトたちだ。わたしたちはクラスで五人ほどのグループでよくつるんでいる。このバイトの話もそのうちの一人が持ち掛けてくれたものだ。
 九月も中旬にさしかかったというのに、今日は思いのほか気温が上がって夏のように暑くなった。清掃を本格的に始める前に、他の三人は水分補給用にと飲み物とアイスを買いに行ってしまった。
「ここに来る途中にプレハブがあったろ。あそこにはしごくらいありそうだよなぁ」
「ありそう……だけど、もしかして一人で行く気?」
「んじゃ行ってきまーす」
「夏也くん!」
 プールの底から見上げる彼は、太陽を背負ってひときわ眩しく光っている。
 白い歯を見せて笑う顔立ちはもちろん、Tシャツの袖から覗くたくましい腕も、腰の細いしなやかな身体つきも、クラスメイトの誰と比べても敵わないくらいに整っている。それなのに夏也くんは自分のことを少しも気にかけないで、意地悪を言ったり、ふざけたり、からかったりする。
 子どもっぽくて大人っぽくて、素直であまのじゃくで厄介。
 夏也くんは変なひとだ。
「うそだよ。置いて行かない」
 ほら、と夏也くんは腕を差し伸べてくれた。
 握手するみたいに手を繋ぐ。わたしはかろうじて残っている階段の手すり部分に片手をかけて、彼のタイミングに合わせて飛び上がるけれど、二回ほど失敗した。
「夏也くん……わざとやってる?」
「違うよ。が重いんだろ」
「うそ!」
 どこまで冗談なのか、分からない。夏也くんは繋いだままの手にぎゅっと力を込めて、ぐいぐいと引っ張る。遊ばれている。完全に。
 文句を言うために顔を上げると、夏也くんは光の反射を背負いながら、まっすぐなまなざしでわたしを見下ろしていることに気がついて、はっと息を呑んだ。
「なあ
 繋いだままの手のひらに汗を掻いている。二人分のそれが交じり合うのが、恥ずかしくて、もどかしかった。
「キスしたことあるか」
「は!?」
「キスだよ」
 聞こえなかったわけじゃない、聞き間違いかと思って聞き返したのだ。夏也くんには羞恥心とか、照れくささとか、ないんだろうか。
「……暑さでどうかしちゃったの?」
「ばか、違うよ」
 それとなく、手が離れた。きっとお互いになんとなくタイミングを逃していたのだ。
 わたしは夏也くんになんて言えばいいのか咄嗟に思いつかなくて、ただその長い睫毛がつくる影を見上げていた。
 キスしたことなんてない。でも、夏也くんはあるのかもしれない。ないと言ったら、どうなるだろう。あると言ったら、夏也くんはどんな顔をするだろう。
「……ひみつ」
 夏也くんはつまらないんだか、興味ないんだか、退屈なんだか、不機嫌なんだかわからない声で「ふうん」と言った。夏也くんから聞いたくせに。
「そういう夏也くんは?」
「さあね」
「人に聞いておいてずるい」
だって答えてないだろ」
 たしかにそうだ。夏也くんはまたわたしをニヤニヤと見下ろして、腕を差し伸べた。
 今度はさっきと違って、わたしの手首をがっしりと掴んで、いともたやすくわたしの身体を引き上げて見せた。やっぱり、初めから簡単にできたのだ。それなのにしてくれなかった。意地悪で、あざとくてずるい。
 プールサイドでよろけるわたしを置いて、夏也くんはベンチに置いていた荷物から携帯を拾い上げる。クラスメイトに電話をかけながら、視線だけをこちらに寄越して、むかつくほどにかっこよく笑って見せた。

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