211228 誰もかれも春を知らぬ

一。
。江戸のはじめの頃だ。ひとよりも身体が小さく生まれた。十二にもならないうちに丁稚に出された屋敷の主人に娶られて、一人目の子どもを産んだ。妾として肩身の狭い思いをしながら屋敷の端の、空っ風の吹くあずまやに子と二人で暮らした。主人は凍える晩にあずまやへと通い、じきに二人目の子どもを身ごもった。それから家は落ち、食うものも着るものもなく、しかたなく長男を手放している。その後はもう無残なものだ。にとって、子をうしなったことがすべてを絶する悲しみであった。二人目の子を産むときには死んだ。二十そこらを生きた。

二。
晴天に神落つ。代替わりの望めぬひとがたの付喪で、意識のあるうちに神器のすべてを放った。近辺に住まう神がそのいくらかを拾ってやった。俺も例外ではない。名ある神、誉ある神の嗜みとして、常日頃から野良不可の触れ込みで門戸を開いている。その期に戸を叩いた神器のひとりに、二十いくつの女の姿があった。
古参だけでやってきた頃から比べればうちもだいぶ大所帯になっている。偶々ではあるが男の数のほうが少し多い。女がひとり増えればそのぶんだけヤスミが増すものの、まあいいかと召し上げた。古老衆への反骨の一部だ。半ば自棄だった。名を織云とつけた。前の主のもとでは金細工の帯だったというが、俺の手元では一反のなめらかな織物と成ってみせた。
そも、こんなことは高天原の茶飯事でいつのどれであったかを思い出すほうが難しいものだが、この落ちた神においては天のおぼえもめでたく、少しの付き合いもあり、受け持っていた地域の厄払いなどを没後に肩代わりしてやったので、よく覚えている。恩を売っておけばよいと黄云がうるさく言うのでそうしてみたが、俺の善意を天はわずかにも意に介さず知らん顔である。とんだ取り越し苦労だ。やらなくてもよかったことだと文句を言えば黄云は幻滅した目で俺を見た。代替わりする前の俺ならばこのような些末事にぐちぐちと文句を言わなかった、と言うつもりだろう。一代前の俺ならば。今の俺になる前の俺ならば。
ああしろこうしろと口煩い躾は多いが黄云はよくやってくれている。それを認めない狭量な俺ではない。気質の相性は悪くとも、性質の相性は抜群だ。雷刃と称された聖獣の姿を持つ黄云は、雷神である俺の手足として申し分ない、それどころか、あるいは、今の俺にとっては救いとも呼べる存在であるのかもしれない。もちろん素直に口にしてやるつもりは微塵もないが。

三。
いつも機嫌が悪い。腹の虫がおさまっていたことがない。先代はああだった、だからあれをするな。先代はこうだった、だからこれをしろ。廊下での話し声に耳が峙つ。聞きたくてそうしているわけではない。聞こえてしまうのだ。なにせここは俺の館で俺の城で俺の庭で俺の手の内だ。私室のうちですら声は止まない。夢に見る。眠りさえ俺の逃げ場にはならない。
畳に身を投げ出してふと数日前に召し上げた織云のことを思い出す。あれは名の通り肌馴染みのいい絹織物だった。武具や神衣のたぐいではないのでしばらく忘れていた。そんなことを言えばまた関云が、神器の一人ひとりに関心を示せ、それが神の役目だと小言を呟くことだろう。
織云は女中として屋敷のなかの仕事を務める神器たちともうまくやっているようだ。精神的に安定しているし、厄介ごとをうまくかわす賢さもある。呼びつけると、小柄な体躯には少し大きい小袿姿で、皿洗いをしていたらしい、赤くなった手指をこすりあわせて、うやうやしく居住まいを正して座った。肌が冷えていると言ったが絹織物の姿は見事なもので、頭から被れば俺にはもう何の音も聞こえることはしなかった。

四。
二の舞になるな。もう、聞き飽きた言葉だ。耳にタコができた。庭の柿木に小石をぶつけて遊ぶ。池に跳ね落ちて飛沫が上がる。出来心で高く振り上げた石のひとつが、縁側に並んでいた洗濯物の白布に吸い込まれて、雪崩のように全部が地面に落ちて古老衆にしこたま怒られた。「ふて寝する気ですか」、黄云のあきれたような声を振り切って部屋に戻る。今夜の宴に行くつもりはない、寝てしまって忘れたことにする。寄合だの歌会だの予定には事欠かないが俺の知ったことではない。呼ばれているのは俺でなく、先代の俺なのだ。「身勝手で甚だ嘆かわしい」うるさい、「武御雷としての自覚が足りてらっしゃらない」うるさい、「短腹で傲慢で子どもじみている」うるさい、うるさい。
「織云!」
夕くれないの差込む畳の上にころりと小さい身体が転がる。織云は俺のせいでやり直すことになった洗濯物を抱えて水仕事をしていたようだ。かっと血が上って耳まで熱くなる。別に織云は俺を責めていない。何も言わずに佇んでいる。どちらかと言えば俺を恨んでいるのは土汚れのついた白布のほうだ。情けなさで消えてしまいたいと思ったのはもう何度目か知れない。俺がよほどの形相をしていたのか織云は委縮して、名を呼んでからしばらくは物言わぬ織物となって俺をあたためた。
包まれて横になると、前には感じなかったぬくもりがあった。俺自身の温さか。はたまた織云のものか。日を浴びた白布からは太陽に匂いがするが、織云からは石鹸とひとの女の匂いがした。包まれているあいだは俺の眠りを誰も何も邪魔するものはない。しばらくして前後不覚になったように目覚めた。黄云の手がこわごわと織云の成す織物を捲って、鼻に触れる冷えた空気でやっと夜だと知った。「お目覚めですか」黄云はあいもかわらず興味なさげに平坦に聞く。ふて寝をしたのは覚えているが、なぜ癇癪を起したのかは忘れた。久しぶりに深く眠った。救いあげた織物は手のひらを水のようにつるりとすべる。それから、昼寝をするたびに織云を探すようになった。

五。
「近頃はあなたを添い寝の供にしているようですね」と黄云が言う。織云は「人聞きの悪い」と苦く笑う。半分ほど覚醒した頭のなかにそよ風ほどの声が入ってくる。俺が寝入っていると思い油断している。織云に包まって寝ているときは何の音も聞こえなくなるが、織云の語る声だけは子守歌のように届くので、浅い眠りが解かれてしまった。それでも織云の声は心地良い眠りへと誘いつづける。いざなって、まどわせて、右も左も分からぬ深淵じみた寝闇へ落とす。
「穏やかに眠るだけの場所もお持ちでなかったようなので」
あたたかい手のひらが俺の額を撫でる。というより、ひとの温さに包まれている感覚がじんわりと身体の底をぬくめるのが分かった。ひとと共寝したことが無いというつもりはないが、このところそういったことも無かったので、新鮮だった。あるいは子が母に抱かれてまどろむのはこういう感じなのか、と。
無いおもかげをなぞる。

六。
ヤスミを抱えた神器を禊いだ。月の満ち欠けが終わるあいだに二度もあった。いずれも若い神器だったので古老衆がいとまを出せとしきりに喚く。年若い神器は心身ともに未発達で戦にも向かない。武神である俺が抱えるには手に余る、と嘆く。なにせ召し抱う俺自身が未発達だからである。「誰がこうしたのか」、畳に散らばる筆やら、硯やらを黄云が一つずつ拾う。俺以外にいるものか。腹が立って、無視をした。

七。
昼寝のたびに織云を呼ぶのは幼稚だからやめろと関云は言う。寝毛布をねだる子のようでみっともない。同時期に、後ろ背を刺すものがあった。朔の夜から少しも経っていないのに。何かもうどうでもよくなった気がした。織云を呼ぶ。話をするのも惜しんで抱き包んで、横になった。「タケミカヅチ様」幼子の夜が蘇る。「首に障りが」
「いつものことだ」
神器の心中がざわつけば俺の肌が粟立つ。不安が懼れになり、懼れは病みとなる。一晩も寝れば治ることが多いので気にしていない。織云はそこばかりを優しく撫でた。しばらく時間が経つうちに織云までも寝入っていた。呆けたまま寝返りを打つ。織物を天に翳して、その金糸を光に透かし見る。織云は気づいていない。美しくみごとな糸の波に見惚れた。

(八の前。)
我が君の私室が静まり返っていたのでまた寝ているのかと足音を潜める。御簾の向こうには身体を投げ出して横になる我が君と、その隣に女の姿があった。ぎょっとする。昼間から。いや、成年の御姿になられてからここ数百年はこれでも落ち着いて、神器を恣にすることはなかったはずである。「黄云様」、きびすを返そうとした俺を呼び留める声がした。織云だ。ああ、なるほど合点がいった。うわごとで名を呼ばれでもして身体が戻ったのだろう。覆いかぶさられて身動きが取れなくなっているのを、腕を引き上げて助けてやった。我が君は一度深く眠るとなかなか起きることをしない。織云は片方の頬にだけ赤く、畳の線が残っていた。うたた寝をした稚児のように。

八。
肌寒さに目を醒ます。珍しく夢を見た。身体を包んでいたはずの織云がいなくなっている。どうりで寒いはずである。起き上がれば部屋の隅には黄云が控えていた。主が寒さに震えているのを何もせず黙って見ていたのかと思うと腹立たしい。織云はどうしたのかと聞いても「さあ」と黄云は首を捻る。共寝をしていたはず。屋敷の中にいるのは気配で分かる。後ろ頭を掻いて、ついでに障っていた首の裏に触れる。ここを撫でていた手の温度が思い出される。あれは感覚だけだったのか、それともひとの手だったのか。分からない。

九。
神議の宴でしこたま酒を呑み、足取りが揺れたのを黄云は呆れかえった様子で見咎める。酒に溺れるなとも千鳥足を正せとも言わず、ただ黙っているので、気味が悪い。そんなだから祝になれんのだ。主を敬わず、崇めない臣がどこにいる。からがら屋敷に帰り、古老衆に見つからぬように部屋へと戻る。出迎えの女中たちに神御衣だの烏帽子だのを預ける。去り際に黄云に嫌味をぶつけてやった。苦虫を噛んだような顔をしていた。おかしくてかなわない。うたた寝をするのもいいが、このまま寝るのは惜しい。
「織云!」
私室にいたらしい織云は部屋着のちっぽけな小袖を着ていて、こんな姿では御前にいられないと駄々をこねたが、そんなことはどうでもいいとそこへ座るよう言いつけた。酔っているのは重々分かっている、たださっき見た黄云の苦み走ったあの顔、織云にも見せてやりたかった、けたけたと喉奥からこぼれる笑いが止まらない。身体の重心がぶれてそのまま肘をつき、支えるように身体を寄せた織云の腿に耳を押し当てた。
ぬくい。日を浴びてうたた寝をするときと同じ温度と匂いがする。ひとの女の姿であっても同じだった。石鹸の匂い。たぐるように近寄せて、あたたかな絹だか肌だか分からぬものにただ頬をくっつけた。そのあとすぐに寝落ちた。

(十の前。)
「若様ったら近頃織云ばかりお呼びになって」「共寝しているって聞いたわ」「あら、膝枕をねだっているんじゃなかった?」「いやだ、それじゃあただの子どもがえりよ」「成年してしばらく経つのよ」「良い仲なんじゃない?」「近頃は浮いた話もなかったから」「癇癪も落ち着くといいわねえ」「あら、黄云様、聞いてらしたの」「若様には秘密にしてくださいね」「ところで今夜、お暇じゃなくて?一緒に飲みません?」

十。
また織云がいなくなっている。冬が近いので昼寝をしていれば寒さが身肌に染みる。身体を起こすとやはり今度も黄云がいた。書物を読みながら茶を飲んでいる。悠長にしおって。おいと呼びかければぱたりとそれを閉じて、こちらへ膝を向けた。「我が君」、妙に落ち着き払ったそのかんばせを見ていると焦れて、いやになる。
「織云は」
黄云は何か言おうとして言いよどんだ。ほんのわずかなためらいが見えた。「さあ」それが嘘なのははっきりと分かったが、俺は何も言ってやらない。
「近頃は、寝言で名を呼ばれることが多いのだとか」
まあそんなことなのだろうと思っていた。なにせ織物の織云には身ひとつを動かすことさえも容易ではない。それにきまって黄云が代わりに俺の傍にいる。しようのない主だとでも思っているのか。ああでも織云に限って、そんな風に言うだろうか。

(十の後。)
我が君はまた惰眠を貪っておいでだとお聞きした。先月の宴はともかく今夜の寄合に限っては、仮病を使って謀るわけにもいかない。関云殿にも口を酸っぱく言われて重々承知していることだろう。冷気の籠る廊下からそっと耳をそばだて、入室の合図をすると、小さな女人の声で「はい」と応答があった。また織云が元の姿に戻っている。声を抑えてふたこと、みこと交わす。またですかと言えば織云は苦笑いでうなずく。「このところ、うなされていらっしゃいます」人の子にそうするように、織云は我が君の頭をそのひざに乗せ、ゆるりとその頭を撫でてやる。はじめからこうしていたのではないか、と思うほど慣れた仕草である。なるほど我が君はずいぶんと甘えておられる。もしかして。いや、不敬な想像だ。

十一。
このところ夜に眠れないことが増えた。師走の大祓いに合わせて仕事が増えて神器たちも疲弊している。少しのヤスミが身体に障る。これもまあ、毎度のことだ。大した痛手でもない。それどころか退屈という業火にあぶられることのほうが俺にとってはよほど苦痛である。「昼寝のしすぎでは」と黄云が呟いたが、無視をした。

(十二の前。)
「黄云様、お願いが」。織云がいつになく慌てた様子で私を呼び留める。これからタケミカヅチ様の命で単身中つ国に降り、近くご執心であらせられる祝の器である少年を視察に行くところである。神御衣を被る私の傍へ寄り、織云は耳打ちする。「眠りによいという薬を買ってもらいたいのですが」、よいでしょうかと声を潜めた。
「眠りにですか。それはもちろん。眠れていないので?」
「わたしではありません。その……」
ああ、なるほど。タケミカヅチ様は私にさえも弱みを見せることを厭うので、寝つきが悪いだとか寝不足だとか、そういったこともじかに教えてはくださらない。もっとも、態度で分かることも多いのだが。
「分かりました。薬師の漢方でもだめでしたか」
「苦いものは嫌だとおっしゃって。調べたところ、甘いお茶で良さそうなものがあるのです」
織云がスマホを見せながらこれがなかったらこれ、これもなかったらこれと候補を見せてくれるがよく分からない。
「……織云、共に中つ国へ降りませんか」
「えっ、わたしもですか。良いのでしょうか」
「きっと許してくださるでしょう。我が君のためです」
ぴりと雷の走るような視線を感じ、御衣の向こうを見やるとタケミカヅチ様がこちらをじっと見つめていた。母親を取られた子のような拗ねた表情をしておいでである。素直になればよいものを。礼をして、織云を連れて降りることを尋ねれば二つ返事で許可が下りた。少し、してやったりというような、優越感を抱いてしまい、身を恥じる。

十二。
黄云が織云を連れ立って中つ国へ向かった。出発前の黄云を捕まえて、祝になるコツを教えてもらえと発破をかけるつもりだったが、仲睦まじそうに話すふたりの様子を見てからというものそんな気分でもなくなった。黄云が祝となりその唯一無二の雷を天に知らしめることができるなら、その切欠が死線でも色恋でもなんだって構わない。ただ、呆けるだけならその限りではない。黄云にその自覚があるのか。道標のくせに古老衆の言いなりで、俺にだって本音を語らない。舐め腐って知らん顔して、呆れた目をしては俺を見る。俺にどうして欲しいのか自分の言葉では一言だって言いはしないのに。腹が立つ。感情が収まらず、庭の樹をへし折ってやった。

(十二の後。)
中つ国から戻り視察のご報告を差し上げようと部屋を訪ねれば、折れ曲がった樹が庭に転がっているのが見える。関云殿にさんざん叱られたらしい我が君はへそを曲げて、自分でやったことのくせに、腹の虫の収まらないままあぐらをかいて不貞腐れている。とばっちりを食ってはならないので、後ろに控えていた織云を一度下がらせた。機を改めたほうがよいと助言すると私に買ってきたばかりの荷物を預けて席を外した。せっかくなので自分で渡した方が良いのではないかと思ったが、その方が我が君がお喜びになると言っても織云は取り合わず、我が君に購入品を手渡すと、より不機嫌に眉をひそめて「だからお前は」といつもと同じように悪態をつかれた。

十三。
昼寝をしていても鼓動の跳ねる音がすれば自然と目が醒める。均等な符を刻んでいたはずの心音が、雷に打たれたように波打って見せる。微弱な雷が流れるがごとく、身体の芯が跳ねて熱くなる。うたた寝の夢から引き戻すのは織云の胸の内が軋む音だ。同時に、障る。この手の痛みは色恋沙汰によるものである。そうすると決まって眠りのうたかたに織云と黄云の声が聞こえてくる。ああそうか、と知る。織云は黄云に焦がれているのだ。主を眠りから醒ますのも厭わないほど。それを知ってか知らずか、いや知らずに、黄云はのんべんだらりと過ごし腐っているが、織云はつつましく想うばかりである。この前も嫌味を言ったが「はあ」と訳の分かっていない顔で相槌を打っていた。そんなだから、お前は……。もういい。高天原のこの庭に花が芽吹くのはまだ当分先になりそうだ。

(タケミカヅチの受難と空回りは続く)

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